昭和47年12月08日 朝の御理解
御理解第48節
「わが子の病気でも、可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞ。言う事を聞かぬ時に、ままよと思うて放っておく様な気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
ままよと思う心。ままよと。なかなか此処のままよと言う心が出ない。是は、わが子の病気でもと仰るのは、まあ、大変な心配な事。難儀な事という意味になるでしょうね。その難儀な事。その事だけに頭がとらわれて言わば身動きが出来なくなってしまう。ね。心配をすると、言うなら仕事も手に付かん様になる。その事だけを思うて、そして、悪い方へ悪い方へと心を使う。言うなら最悪の事を想像する。
例えばなら此処では子供の病気と言う事に言うておられますから、子供の病気の事を思うて親が心配をしないはずはありませんけれども、ね、こりゃ万一死にどもしたらどうするじゃろうかと。言う様な不安が募る。ね。だから、そう言う心ではおかげにならんと仰って居られる。その可愛い子供でも言う事を聞かん事がある。元気な時に。ね。そしてもうどげん成ったっちゃ知らんぞと言うてその、親が実際にそう言う風に思う。言う事を聞かん。そういう時に、もう放っておく様な心持が生まれて来るでしょう。
けれどもその、放っておくと言うてもそれは、投げやり的なものではない。そう云う心になってです、ままよと思うて放っておく様な気になって信心してやれとこう仰る。此処ん所が大事ですね。信心せにゃいけん。信心してやらないけん。子供の為にね。もう子供が、例えば息を引き取りそうに苦しんでおる。それを見とって置きたいのは親の心ですけれども。見とったからと云うて病気が良く成る訳じゃないから、畑にでも出て仕事をせよと。と言う様な厳しい所があの、教祖のご伝記の中にありますよね。
もう子供さんがいよいよ難しいかごたる。それを奥様がその枕元でそれを看病しておられる。看病すると言うても、もう死ぬばっかりの様な状態の時にもう、神様はそれに構うとったっちゃおかげにならんっち。ね。田んぼにでも出て言わば、心が紛れる。一生懸命に仕事でもしておると。その紛れると云うその心がおかげげを受ける元に成るのです。この辺の所は大変微妙は所ですね。だから、此処に放っておく様な気になってと云う事はそう云う事だと思う。ね。一生懸命信心さしてもらう。
一生懸命お参りをさしてもらう。拝ましてもらう。お取次ぎを願わしてもらう。そこから、心が紛れて来ると言うか、心の中に少しゆとりが出て来る。ね。心配を過ぎて薄らいで来る。そう云う心におかげげが受けられるとこう言う。是は子供の病気と云う事だけではない。様々な難儀な問題に直面した時にです。その難儀な問題の事をです、ね、悪い方へ悪い方へと心を使う。いわゆる取り越し苦労である。それではおかげげにならんと。それでは、おかげを受けられんと。
それでそこでまあやけの心を起こす訳では、まあ何とかなろうと。どうにかなろうと言うて、その放っておく様な心、そう云う心の状態で信心する。放っておいてもう此処まで、どうにでもなれと言った様な投げやり的なものでは決してない。信心する。ですから、此処の所をど云う事かというと、心配で心配でたまらない。不安で不安でたまらない。それを、打ち払うだけの信心。打ち払うだけの信心の度胸。いわゆるままよと思うてと言う所が日頃出来ておらなければならん事を痛感しますねここで。
神様の一分一厘間違えのない御働きの中に、私共がこうしておかげを受けておる。と言う事を私実感する事が信心のお陰だと思うですね。神様の働きの一分一厘間違えのない。わけて、神様へ心を向けて信心さして頂く者の上に、現れて下さる神様の働きと言うものは、一分一厘間違えがない。ね。これは例えば、合楽教会の上に現れておるお陰と云う物を皆さんが思われるとそれが一番良い。
いろんな場合に、もうそれこそ切って継いだ様に正確である。先月なんか、この御造営が終わったとたんに、あの記念祭が終わったとたんに、御造営の事で一生懸命心を使うておられて、お供えをなさっておられた方達が、ピッシャっと辞められた方達が大分あるんですから、繁雄さんのお初穂を毎日整理される。繁雄さんのもう三分の二ぐらいしかなかった。今月の支払いどげんなるじゃろうかと言うてまあ心配しておられた。かと言うてなら、月末に締めくくった所がやっぱりきちっとあったとこう言う。ね。
と云う様にですね。もうそれこそどう言う風にしておかげを頂いておるやら分からない位にきちっとした事である。ならこれ金銭の事だけじゃありませんよね。もういろんな出来事の上にも、もうそう云うおかげが受けられておる。一分一厘間違えのない働きをそこに受け止めておる訳です。ね。だからそう云うお陰を見たり聞いたり。また自分も頂いておらないとです、いよいよそう云う時に度胸が出来ません。是程間違えのない神様だから、親先生が何時も頂いておられるおかげげ。ね。
またお互いも頂いておる様々なおかげ。そのお陰と言うものがです、ね、見たり聞いたり、頂いたり自分がしていないとです、いっぺん自分の事に直面した時にです、慌てなければならん。慌てるのではおかげにならん。心配する心で信心せよと。まあ、例えば子供が病気。それも大変まあ重体というなら親は心配せなならない。けれどもお取次ぎを頂いて、お願いをさして頂いておる事であるから、ね、お取次ぎを頂かせてもろうて、御教えを頂く。その御教えの方に心配をする。
心配と言う事は心配りと言う事である。ね。思うてみると日頃御教えを沢山頂いておるけれども、御教えの方を行ずる事の心配りが出来ていない。はああそこも抜けておった。ここも間違っとったと云う事ばっかりである。ね。教祖様はけして難しい事はひとつも仰ってはいない。ね。昨日のご理解の中にもある様に、私共がもうそれこそ合楽の信奉者の方達がもうこぞって、もうそれこそ老いも若きも是だけは、この事だけは願わなければならない事として。また家族中でです。
勢をを揃えてこの事だけは願わなければならない事。願いましたか。この事は願いましたかとお互いがです、祈りの中に忘れる様な事があっちゃならない。人間がもう切実に止むに止まれん思いを持っておる願いの中には、健康でありたいと云う事。だから体の丈夫を願わなければならない。ね。同時に家庭が円満でなかならければ、どう云う沢山な物や金があった所でです幸せじゃない。親子が何時も喧嘩しておる。何時も財産がある為財産分けの為に血を流すような、血を血を洗う様な事柄が起きておる。ね。
そう云う事ではいけませんのですから。まず家庭の和。家庭の円満を願わなければならない。家庭に不和のなきが元と仰るのだから。ね。そしてどうでも、ね、子孫繁盛家繁盛、商売繁盛諸事繁盛のおおみかげを頂かなければならない。ね。これはお互いが切実に思うておるのですけれども、切実に是を繰り返し繰り返し祈り願わなければならない。ね。なら、さあ、そうしても願わねばならんと言うから願う。そんなら、願うたからには、ね、今度はお取次ぎを願って願う。
ならばお取次ぎを頂いて帰ると言う所がなかならければならない。教えを頂いて帰ると言う所がなかならければならない。そこでなら体の丈夫を願わしてもらうならばです、ね、まず体の丈夫を願うならば節制食しなければならない。大酒大食は絶食の元と言われるのに、大酒大食しながら、ね、そして体の丈夫を願ったって是は通じない。所がですそれと同じ様な事を私共が常日頃しておる事に驚くのです。ね。
家庭に不和のなきが元ですから、どうぞ家庭に不和のない円満のお陰を頂かせて下さいと願いながら、ね、夫婦が親子が責め合っておる。お互いが不足を感じあっておる。心、口では言わんでも心で責めとる。家の嫁ごさんばっかりはもうちっとどうかせりゃ良かとこう言う。もうちっと朝でも早起きすりゃ良かとこう言う。家のばばさんなあ、っと言うて責めおうておって、口でだけどうぞ家庭円満をと願った所で、家庭に不和のなきを願った所で是は、もう本当に空論になってしまう。願いが願いになっていない。
家繁盛子孫繁盛を願わせて頂きながらです、無駄遣いはする。ね。必要でないものでも買う。いや、買うた物は空いたらパッと捨ててしまう。実にお粗末ご無礼になっておる様な、言うなら始末倹約もせずして、どうぞお金が残ります様にと願ったって、神様が聞いて下さるはずがない。そう云う様な例えばです、私共が心配事が出来た時、子供が病気にでもなった時、なんかそこに難儀に直面した時です、思い至らせて頂くのは、日頃この様に願いを立てておるにもかかわらず。
神様の教えを聞いていなかった事に、行き届いていなかった事に気付かせてもらうから、その信心の方に心配をする。信心の方に心配りをする。是は、難儀な事に心配りをするのじゃないですよ。心配と云う字は心配りと書いてあるが、ね、今言う様に悪い方へ悪い方へと連想する。最悪の場合も考える。是はこのままほっとったら死んだりゃあせんじゃろうか。このままこの問題を放うからかしとったらどうなるだろうか。とそう云ういらん方の心に心配りをする。それを本当の心配っちゅう。ね。
そこで教祖様は心配する心で信心せよと仰る。そう云う心配を方向を変えなければならない。教えを守らしてもらう。いや教えを頂く。頂いておる教えをお粗末にしておる。はあ、こげなんお粗末な事をしとって、金に難儀をするはずだ。成る程こげな事では健康のお陰の頂けるはずがない。こんなに心で責め合いながら、言葉で、言うならば責め合いながら、どうぞ家庭円満、家庭円満ばっかり願うたっちゃお陰になるはずはない。もう今日を境に、金輪際人を責める様な事はせんぞと心に決めると。
例えば。ね。そこからです神様の特別な働きが生まれて来る。そこんにきはままよと思う心と言う様な、信心の勇気と言うか、元気な心と言うか。信心の度胸と言うても良いでしょう。ね。そう云うままよと云う心お陰が受けられると教えておられる訳です。この頃から、丁度二十日余りでしょうかね、あのこちらの神戸の方から修行に来ておりました人がおりましたね。高、何とかって。高、何ちゅうたかね。ああ高幡さんか。高幡さん。もうこの人は日にお酒を二升づつ飲まなならん。
で此処へ来て、2、3日は、2、3日もちゅうかも兎に角、あちらを立つ時にもう、是から酒は飲まれんからと言うて4人で6升飲んだ。他んとは弱か自分な強かっちゅうけんまあ2、3升飲んどったかもしれん。ですから此処へ来た時もなんかポッポしとるごとしとった。お母さんと二人で。もうお年より。ね。そして此処にまあ修行さしてくれと言う事だったから黙って受けておった。所がもうすぐもう兎に角傍に座っとくと、酒の匂いがもうプンプンする。もう部屋中が酒の匂い。
と言う事でまあ何処にか飲みに行く、そりゃあもう警察から電話が掛かってから、自動車ば止めるそうです。善導寺に飲みに行ってから。それで警察に保護しとるから早う連れに来てくれとか。はあ何処か飲みに行ってからもうてんで頭をこうざくろんごと割って来とる。叩かれたか、怪我したか知らんですけどもね。それでもやっぱり飲む。それでもう、誠治さんがこの人ばかりは、此処に是だけ沢山の酒があるけれども、家の酒を盗む様な事だけはけしてしなさらんですよ。っちから言いよった。
おおそりゃ感心な事じゃんの。ばってんお金は持って来とらんっち言いよったが、んならどげなんふうにしてから飲みよるじゃろうかと皆が話よる。したら昨日一昨日でしたか、母が年寄りの部屋の裏の方へ、私共の横に最近、お神酒のビンがいっぱい置いちゃるっち。ありゃこっち片付けちもらわにゃ、年寄りの私共が飲みよる場所ごと思われるといかんけん取り来てくれんのっち言うてから。言うて来た様なけんで取り行っとりますです。そしたら、もう特級酒ばかりずらりビンが並んどる。
それも、家では絶対飲まない。あのね、御本部で皆さんがお土産になさる、神露とか何とか。あるでしょうが。家じゃ飲まん酒が全部、まだビンを開けると酒の匂いがプンプンしよるとばかりがですね、もう沢山空瓶が並んどった。して酔っ払ってもう兎に角人に話し掛けるから、もう私は今度という今度ばっかりはもう大阪弁が大嫌いになりました。もう本当にあの大阪弁と言うのは、何とはなしにね。
今までは何か漫才でも聞きよるごたる気持ちでこう聞きよったけれども、もう兎に角あの、愚だ巻くわけですからね、大阪弁で。もうほんとにもうその部屋やら、事務所やらに行ってから、人に皆いろいろ話すわけです。ね。そしてその金が事務所で3万円ばっかし無くなったと言う。それがその自分が取ったごと疑われちゃおらんだろうかと。涙ながしてからそれを誰んでんかれ訴えるらしいんですよ。
それがどうなっとたかそりゃ分からんけれどもですよね。所がです私は今度この人が来てから人に、その言うておる事の中にこちらのそれこそ心を突かれる様な事を言うておる事を聞いてから、お互いああ、こりゃ合楽の信心の此処ば、本当指摘された、神様に指摘された様な思いで改めて行かにゃいけんねと言うておる事があるんです。よしひろさんを捕まえて、あんた此処の何かっち。って言うて話す。此処の少年少女会はラッパばっかりしか吹かんばいのっち言うげなもん。
成る程此の頃そういやあ、ラッパばっかりしか吹いとらんです。以前はもう少年少女会っち言うたら、もうそれこそ大人顔負けの様な御祈念をしたり、ね、一生懸命お話を頂いたりしよったけれども、この頃御祈念をする事もせんし、ツーっとあの地下室の方へ降りて行ってからラッパ吹くばっかり。こりゃ例えばならまるしょうの指導する人達が、もう大いに思いをそこに改めなければならない事があると思うんです。ある時には末永さんが、ゴミ焼き場の所にゴミを焼きに行った。
所が高幡さんが言う事に、もう兎に角、此処で5年も6年も修行してやったっちゅう人があげなん事で良よかですかっち話した。なし、どうしてですかっち。とにかくゴモグロを焼くとにです、ビン切れも入っとりゃあ、缶詰ん空も入っとる。あげなん実意丁寧を欠いだ事でよかですかっち言うて。もう、言われて見るとその通り。もう一生懸命皆さんが知っとる通りの修行が出来ておりますよね、末永さんなんか。
けれども例えばその一事だけでもガターッと信心は引き落とされる事になる事を末永さん最近気付いたと言うのです言われてから。ほんな事とてもそげな実意丁寧を欠く様な事でおかげの頂けるはずはないと気付いた。とても他んもんじゃ言いきらん。酔っ払っとるから言うとる。例えばならこの二言だけでもです、もう例えばなら一兎一兎五升ぐらいの酒飲ましたぐらいのこっちゃなかです。ね。そう言う風にです私共の信心が抜けておる訳です。それでいてどうぞおかげ頂きます様に、おかげを頂きます様に。
おかげの頂けないはずがそこに分かる。その事したら難しい事かと言うと、最近言われる、金光様のご信者としては当たり前の事を私共おろそかにしておると云う事なんです。もう金光様の信心の例えば、実意丁寧などと云う事はもう、その筋金生命の様に言われる。それに例えば実意丁寧な事を欠いていかに、言うなら断食をしたり水をかかったりして拝んだ所で、修行した所でそれではおかげにならん事が分かる。
例えばお互いが、おかげの受けられない時点に立った時です。言うならそういう難儀な心配な事が起こった時です、ね、その心配な心をです、悪い方へ悪い方へと心を使うて行く様な心配ではなくて、心配りではなくて、常日頃頂いておる御教えの信心の方への心配りが出来ていなかった事を、そういう時に心を配らしてもらうとです。有るは有るは、おかげの受けられない元が沢山ある。いやおかげは頂いても此処から漏ってしまうだろうと云う様に大きく破れ果てておる様な事が沢山あるという事。
だからその方へ心配りをする。心配する心で信心をせよと。いわゆるこの事だけはもう誰もかれもが皆で勢を揃えて願わなければならない。それは切実な願いである。人間が幸せになって行く事の為にはです。どうでも健康であらなければならない。ね。家庭が円満でもなかならければならない。ね。一切の物やら金んでも恵まれなければならない。だから是はもう切実な切実な願いですから、是は真実の願いである。ね。しかもその真実の願いと言う事は、本当の願いと言う事である。
私共の是は本当の願いである。いいや私はお金はいらん。私は健康にならんでもいい。何て言うもんはおるまい。そこでそういう願いがです、ね、成就する事の為にそういう難儀をしておる時に心配りの方をする。信心の御教えの言わば、おろそかになっておる事が、ね、段々出来て来る所のおかげを頂く所に、そのおかげが一分一厘間違えのない働きを持って頂ける様になる所まで信心の稽古をしなければならない。そういう例えばならおかげを受けてです。
例えばなら、その健康がまたは、んなら金銭のお繰り合わせがです。ね。おかげを頂いてお金が沢山儲かる様になったとか、ね、家がだんだん繁盛してきたとか。おかげで皆が健康であるからと言うてです、健康に任せて、例えば暴力を振るう様になったら真実の願いと言うものはもういっぺんに、それは真実の願いと言う事になって来ないのです。ね。真実と言う事は、私共の切実心とです、神様がどうぞおかげを受けてくれよと仰る心とが一つになった時の事を真実心と言うのです。ね。
願いが叶うておかげでお金に不自由せんごつなったと云うそのお金でです、ね、悪い遊びを覚えてたりする様な事であったら、もうその場で真実のものはなくなるのです。ね。そこでその、ね、不自由せんほどの沢山のお金でも健康でもです、それが神様にお喜び頂けるような事に凝視される所の信心。ね。是が真実の願い。そういう願いには、光がある。その光に照らされて本当な事が分かって来るのですから。例えばどういう心配な事が起こっても。その本当な、事の光に照らされますから。
それは心配する事じゃないという事が分かるから、不安も無くなって来る。安心のおかげが頂かれる。真っ暗い中を行くか、そこから何か怖いものでも飛び出しては来やせんじゃろうかと不安になるのですよね。明るい電気がいっぱい点いておる通る所を例えば、夜夜中であっても怖いと思わないでしょうがね。その信心の光が真実の願いになっていないから、光が無いからです、いよいよ難儀な問題が起きて来ると、さあどうなるであろうか。先はどうなるだろうかと取り越し苦労をする。
いわゆる本当の心配る所を困る方へ、困る方へと心を使う。難儀にならねばならない様な事へ心を使う。是が本当の心配。ね。だから心配とは心を配るという事は、有難い方へ、有難い方へと有難い事を心を配って、その有り難い方がです、私共がそういう事に直面した時に、末永さんが言われた様にです。こげなんことで良いか。5年も6年も信心。修行をしよるもんと言われるかと。言われてみて。ああほんにそうだったと気付かせて頂く。そういう所に心を配って行くね。
是からはこげなん、例えば信心の無い人達から、酔っ払いから指摘される様なね。そげなん事があってはならない。ならそれをあってはならないと行ずる事は難しい事か。けして難しい事じゃないね。その難しくもない事をです、良か良かで今まで放ったらかして来ておった事がです、おかげの受けられない元であったと気づく時にですね。有り難い心配りが出来た事になるからおかげになる。ね。難儀な問題と思うておる事でも、それは難儀な問題ではないとはっきり信心の光で照らされた時に。
所謂肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃる様にです、心の目が開けて来るとです、難儀な問題は難儀な問題ではない。ね。そこから私はままよと思うて放っておく様な気が生まれて来ると。ね。そしてそこにまだ不安があるならば、心配があるならばその不安心配をです、有難い方へ心配りをさせて頂く。そこから信心方へ向けさせて頂くと言う所から、ね、そこからおかげが受けられると教えておられる。ね。信心さして頂いて、此処で御用もさして頂いて、本当に親先生が仰る通りにさえしておけばもう絶対。
仰る通りという事は、教えを守るという事ですよ。御教えを本当に行じさせて頂くという事になればです、自分達もそういう一分一厘間違えのない働きの中にある事を体験さして頂く程しのおかげが受けられるんだと。そこの所を目指してお互いが信心をする。その為にはです、いわゆる教えを守らなければならない。ね。体の丈夫を願うならば、やはり体に害をする様な物を食べたり、飲んだり。または不摂生な事をしてはおかげにならない様に。私共はですね。
おかげを頂いて、一生懸命お願いを、いろんな事のお願いをするけれども、そのおかげが頂けない様な事を平気で思うたり、行うたり。家庭生活の中に、ね、しておる様な事はないかという事をまず思わないけん。そして是ではおかげの頂けんはずだと云う物を分かって。そこから有り難い心配りが出来る様にならしてもらう。ね。心配に打ち込まずに、信心に打ち込め。なら、心配に打ち込むという事はです、もう先から先と悪い事ばかりを連想する様な心配には打ち込んではならない。
信心に打ち込めという事は、ね、信心の方へ今まで教えを頂いておる事に対する所のおろそかさと言う所に気付かしてもろうて、そこん所を実意丁寧に取り組んで行くという事に打ち込んで行かなければならない。ね。心配りを信心の方に配らねばならん。取り越しに悪い事ばかりに心を配ってはおかげにならん。おかげにならない其処ん所を見てです、成る程おかげにならんはずだと云う物をひとつ分からしてもろうておかげを頂いて行かなければなりません。
そういう例えば、繰り返し繰り返しをいたしておりましても、またおかげを頂いておりましてもです。事新たな、ならば心配事でも出来ますと、またそこで不安になります。だから、一段と信心が、その心配な事難儀な問題を通して、信心が進んで行く訳になるのです。だからようと考えてみると、その心配事いうものはです、もう本当は私どもの信心をお育て下さる神様のご神意、ご深慮以外にないという事が段々分かって来なければならんですね。
どうぞ。